文学部歴史学科・史学専攻

「下鴨歴史遠足」 糺河原の調査方法(2016.3 歴史学科 岩永 紘和)

はじめに

2015年11月7日、京都府立総合資料館寺小屋講座「京都の歴史を歩こう!下鴨編」の歴史遠足が開催された。私は、遠足の最終地点でもある河合神社南西にある駐車場付近にて糺河原の解説をおこなった(写真1)。解説では、解説地点を含む糺地域一帯は、現在でこそ大規模な河川改修や宅地開発などで見えにくいものの、本来は「河合」の名が示すように河原としての面を強く持つ空間=「糺河原」であったことについて触れた。そしてそうした河原としての糺地域は、①賀茂川・高野川の合流地点という特異な地形から石塔建立や勧進目的の芸能興行など「神仏と交信する場」、②洛中の境界地帯としての合戦や陣取りなど「戦いの場」、③それらの側面も相まって野草摘みや納涼など「様々な人が様々な事をする広場のような役割」があったと語った。参加者の中には、糺地域一帯が河原としての面を強く持っていたことや、「戦いの場」や「広場」といった多彩な姿であったことに興味を持たれた方もいらっしゃったようだ。なお、糺河原の解説それ自体には組み込めなかったものの、調査過程で重要な論点がいくつかあったので以下ではその事も明記したい。

1.『親と子の下鴨風土記』について

私の解説で根幹となった参考文献は、角川書店や平凡社出版の地名辞典*1と『親と子の下鴨風土記』*2である。『親と子の下鴨風土記』は、20世紀後半から下鴨の自然や風習が著しく失われつつある中で、下鴨の文化を子どもたちに伝えることを目的に「下鴨の文化を子どもたちに伝える会」が中心となり製作された*3。次世代に伝えることを目的に、大変分かりやすくかつ下鴨地域における自然や人々の営みの移り変わりが幅広くまとめられている。糺河原について地名辞典に記載されていない事も知ることができた。また、私の担当した糺河原だけでなく、遠足全体も広い目で見ると『親と子の下鴨風土記』の成果を継承した活動であるように感じられた。
ところで、私が『親と子の下鴨風土記』から参考とした内容に勧進相撲と下鴨城跡の話題がある。勧進相撲については『諸国新撰古今相撲大全』(木村清九郎著、宝暦13年(1763)成立)が典拠とされている。そこでは高野川の東に位置する干菜寺4代目宗円和尚が鎮守の八幡宮を再建すべく、正保2年(1645)6月に10日間相撲を興行し、それが勧進相撲の開基であると由緒づけられている*4。下鴨城跡については、遺構は発見されていないものの、山下正男氏が『室町殿日記』(16世紀後半頃成立)や『陰徳太平記』(17世紀後半頃成立)といった後世の軍記物から戦国期の城跡を想定した研究成果*5を踏まえていると思われる*6。いずれも後年に編纂された史料であり、調査ではより詳細な検討をおこなった。
勧進相撲については、京都町奉行所の公式記録である『京都御役所向大概覚書』「勧進相撲之事」*7によると、干菜寺の申請によって元禄13年(1700)に地蔵堂修復を目的に7日間勧進相撲がおこなわれたと記述されている。興行場所は直接言及されておらず、勧進相撲の開基かどうかも疑わしい。ただ、興行場所について干菜寺の立地*8や、猿楽など勧進芸能が興行された糺河原の場所性を考えると、糺河原で勧進相撲が興行されたことは十分に推測できる。
下鴨城跡についても、①室町初期や応仁・文明の乱に陣が構えられ合戦も行われたこと*9、②洛中の境界地帯で二つの川を天然の堀とできること*10、③中世においては寺社も要害となりえたこと*11、④中世の城は近世の城と異なり一時的な砦のような城も多くつくられたこと*12、⑤当該地域の開発が著しく遺構が残りにくい状況、などを勘案しなければならない。「戦国時代の○○氏の城」というように時期や人物を特定することはできないが、戦時の一時的な砦のような城、もしくは神社境内に城のような機能が付与された可能性はあり、一概に「城」があった可能性それ自体を否定することはできないと思われる。
このように、他史料も組み合わせながらより深く検討することで改めて糺河原の特質も見えてきた。また、こうした話題は人々が抱いていた認識について考察する上でも重要である。「あるかどうかも分からない」と切り捨てるのではなく、そういった認識が営まれてきたことも含め、様々な観点から地域を取り巻く様相を知る努力が必要とされる。誤った「史実」の一人歩きはあってはならないが、一方的な切り捨ても地域の持つ多様さを無批判に断ち切る点で危惧すべきだろう。

2.「今」との連続性について

糺河原を担当した際、「今」との連続性に焦点を当てた。解説において、「神仏と交信する場」では河合神社や下鴨神社がある背景として*13、「広場としての場」では河合神社南にある鴨川デルタ(写真2)が、現在広場として糺河原の役割を受け継いでいることに話をつなげた。
ところで、下鴨にはかつて松竹映画会社の撮影所があり*14、現在では鴨川デルタが映画の撮影地として活用されている。そのこともあって、調査では映画や文学作品から糺河原の「今」につながる連続性を探ることも試みた*15。
井筒和幸監督の『パッチギ!』*16では、クライマックスの乱闘場面で、賀茂川側と高野川側に陣取った両グループが鴨川デルタで激突する。「戦いの場」としての認識に通じるものがある。また、戦いの発端が仲間の死であることを考えると、あの世とこの世の境という「神仏と交信する場」の象徴的位置付けが連想される。
本木克英監督の『鴨川ホルモー』*17や山田洋次・阿部勉監督の『京都太秦物語』*18で鴨川デルタは男女の恋愛上、劇的な転換場面として用いられている。実はこのような場面構成は中世にも存在したようだ。
室町時代前期、能の大成者として有名な世阿弥の作品に『班女』*19がある。離れ離れで愛する人を想うあまり狂女と化した女とその行方を探す男が再会し結ばれるクライマックスの舞台は、下鴨神社参詣後の糺森に設定されている。再び男女が出会い結ばれる糺地域、それは「神仏との交信」を経て男女をつなげる役割を担っていたのである。網野善彦氏は「中世の人々は河原や中洲など、自然と人々の生活空間が交差する空間をあの世とこの世の境と認識していた。人力が及ばない神仏の世界に近いそうした場所では、様々な人々が様々なことをする広場のような役割があった」とこうした場所を「無縁地」と主張する*20が、「縁」という言葉の「縁結び」としての意味合いを強調するなら、あの世とこの世の境には無縁から有縁への橋渡し的な意義も考えられる。
遠足中、様々な人々が集い、川遊び・デート・宴会など様々に楽しまれている鴨川デルタは、河原としての面を持つ糺地域の特質を今につないでいると述べた*21。参加者の方々からは現代の映画と謡曲との連続性や、様々な人々のまなざしが交差されていることに関心を持っていただけた。

おわりに

2015年9月8日、下呂ふるさと歴史記念館を訪れた際「歴史とは自然と人々の営みが積み重なってできるもの」という一文に出会った。糺河原も含め今回の歴史遠足では、下鴨の自然と人々の暮らしが紡ぎだした「歴史」を、今に残る幾つかの手がかりを元に見いだそうと試みた。自分自身の反省として、調査で見いだした魅力をどう発信していくかその難しさも痛感した。また、調査過程も含めて伝えることも必要だったと反省している。今後はそうした面も重視し学んでいきたいと思う。

【謝辞】
今回の研修にあたりましては、京都府立総合資料館の関係者、野口祐子教授をはじめとする京都府立大学の関係者、そして参加者の皆様に大変お世話になりました。末尾ではございますが、深くお礼申し上げます。

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写真1 糺河原の解説(2015年11月7日安藤智美撮影)

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写真2 現在の鴨川デルタ

1 竹内理三編「下鴨」「糺」「糺森」(『角川日本地名大辞典 京都府』上巻、角川書店、1982年)。林屋辰三郎他編「糺河原」「糺森」(『京都市の地名』、平凡社、1979年)。

2 下鴨の文化を子どもたちに伝える会編『親と子の下鴨風土記』第4版改訂(下鴨の文化を子どもたちに伝える会、1993年(初出1991年))。

3 前掲2、3・148頁。

4 「E0024045諸国新撰古今相撲大全 東京国立博物館画像検索」http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0024045(2015年11月23日最終閲覧)。

5 山下正男「京都市内およびその近辺の中世城郭:復元図と関連資料」(『京都大学人文科学研究所調査報告』第35号、1986年)。

6 石崎善久「下鴨城跡」(『京都府中世城館跡調査報告書』第3冊山城編1、京都府教育委員会、2014年)を参照。

7 岡田信子他校訂「「四十一」勧進相撲之事」(『清文堂史料叢書 京都御役所向大概覚書』上巻、清文堂出版、1973年)。

8 干菜寺(正式名称:干菜山斎教院安養殿光福寺、浄土宗)は、天正10年(1582)に現在の左京区田中上柳町に移ったと伝わる。高野川東側に位置しており、干菜寺から河合神社までは徒歩約10分、鴨川デルタまでは徒歩約5分圏内と糺地域と非常に近接している。なお、干菜寺は遠足でも取り上げられた六斎念仏とゆかりが深い寺院でもある。前掲1所収の「干菜寺」を参照。

9 室町初期の動乱と糺河原については前掲1・5とともに、①前田育徳会、尊敬閣文庫編「太平記 巻第八(二〇オ)四月三日京戦之事付妻鹿孫三郎事・巻第十五(十五ウ)正月十六日京戦之事、(二二オ)正月廿七日京戦之事・巻第十七(十七オ)二度京戦之事、(二五ウ)山門牒南都之事付東寺合戦之事」(『玄玖本太平記』第1-3巻、勉誠出版、1973-74年)②山口県文書館編「建武三年九月一日付平子彦三郎重嗣軍忠状」(『萩藩閥閲録』第2巻、山口県文書館、1987年)③八坂神社社務所編「続正法論 応永元年八月二十三日付多武峰寺牒・応永元年八月廿九日条」(『八坂神社文書』下巻、名著出版、1974年)を参照。応仁・文明の乱と糺河原については東京大学史料編纂所編「宗賢卿記 応仁元年八月二十四日条」(『大日本史料』第8編之1、東京大学出版会、1968年(初出1913年))を参照。なお、石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』(吉川弘文館、2008年)222頁から示唆を得た。

10 前掲5。

11 例えば、前掲5所収報告書の石崎善久「川勝寺城跡」・馬瀬智光「八坂神社境内」・中居和志「北野天満宮境内」「城興寺城跡」「石清水八幡宮境内」など。

12 前掲11。

13 なお、勧進猿楽について、寛正5年(1464)の糺河原勧進猿楽開催から550年の節目に当たる2015年5月30日、糺勧進能として再興された。関連シンポジウムとして2015年5月7日、「糺河原勧進猿楽とは何だったのか―室町将軍と能楽―」も開催されたようだ。「糺勧進能ホームページ 有斐斎 弘道館」http://kodo-kan.com/tadasu-noh/home.html(2015年11月23日最終閲覧)。この点でも、糺地域の連続的特質を考える事ができる。

14 大正12年(1923)、関東大震災の影響で東京から移った松竹映画会社の下加茂松竹撮影所が建てられた。昭和25年(1950)、撮影所は京都映画会社の所有となり昭和49年まで存続した。前掲2、39―40頁。

15 なお、鴨川デルタに関係する映画の紹介や、鴨川デルタが映画に取り上げられる背景などについ
て本学教授野口祐子氏から多くの示唆を得た。

16 井筒和幸監督『パッチギ!』(シネカノン、2005年、DVD)。

17 本木克英監督『鴨川ホルモー』(松竹、2009年、DVD)。

18 山田洋次・阿部勉監督『京都太秦物語』(松竹、2010年、DVD)。

19 「班女 銕仙会 能楽事典」http://www.tessen.org/dictionary/explain/hanjo(2015年11月23日最終閲覧)。なお『班女』については、2015年3月18日に訪れた関ケ原町歴史民俗資料館の展示から多くの示唆を得た(作品の前半舞台は関ヶ原野上宿に設定されている)。

20 網野善彦『網野善彦著作集第12巻 無縁・公界・楽』(岩波書店、2007年(初出1978年))。

21 遠足後、朝日新聞夕刊で鴨川デルタが紹介されていた。「合流地点 どこにも属さない開放感」という副題の下、京都に暮らす人々にとって鴨川デルタはどの領域でもないゆえに開放感を味わうことのできる空間であると言及されていた。このことからも糺河原としての特質を受け継ぐ鴨川デルタについて考えることができよう。「京ものがたり 都築響一鴨川デルタでのんびり」(朝日新聞夕刊2015年12月22日)。なお、映画『パッチギ!』についても鴨川デルタをロケ地として用いた意図が井筒監督自身によって語られている。野口祐子氏のご教示による。

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